【益子焼】知っておきたい基礎知識とその特徴

益子焼とは?

栃木県芳賀郡益子町周辺を産地とする陶器です。栃木県南東部に位置する益子町は、江戸時代から始まった陶芸の町で、今では関東でも随一の陶芸の都として知られています。

現在、益子ある窯元は約250と言われています。若手からベテラン、国内外の出身者まで幅広い多様の陶芸家がそれぞれの技術や感性を活かして作陶に励んでいます。

年々盛り上がりを増す、益子の陶器市

益子陶器市

1966年(昭和41年)からスタートして毎年、ゴールデンウィークと11月3日前後に開催される益子の陶器市は、日本でも最大級の陶芸家と陶器好きが集まる祭典です。

60万人来場する益子の陶器市

販売店舗数は約50点で、加えて500ものテントが立ち並び、数多くの陶芸家が多様な作品を販売しています。陶器市でしか買えない商品も多く、人気の作家さんのものは初日の午前中で売り切れてしまう場合などもあるようです。

春、秋の2回、それぞれ4日間開催されていて、合計約8日の間に60万人もの人が来場して、色とりどりの陶器を楽しんでいます。

実は長くない、益子焼の歴史

江戸末期、笠間焼出身の大塚啓三郎が窯を開いたところから益子の焼き物の歴史が始まったと言われています。

その後、民藝運動に関わった濱田庄司が益子を中心に活動したことで、全国的にその名が知れ渡るようになりました。

他の焼き物産地に比べて、実は窯場としての歴史が浅いんですね。

益子焼を代表する作家

濱田庄司

神奈川県川崎市生まれの、東京都工芸学校を経て京都市立陶磁器試験場に入所しました。民藝運動をともにする河井寛次郎と同じ経歴を歩みました。その後、英国に渡り、ロンドンで陶芸家デビューを果たします。その後、関東大震災を契機に帰国をして、益子を活動拠点に移しました。

流掛と呼ばれる、ひしゃくで釉薬を流して模様をつける技法を得意としました。

民芸運動の忠実な実践者

年代 内容
1894 神奈川県川崎市に生まれる
1916 東京高等工業学校窯業科卒業
京都市陶磁器試験場へ入所
1920 バーナードリーチの誘いで渡英、ロンドンでデビュー
1924 関東大震災をきっかけに帰国。沖縄・京都に滞在する
1926 柳宗悦・河井寛次郎らと民芸運動を起こす
1931 栃木県益子の住居に登窯を築く
1942 古民家を移築し、陶房兼住居とする
1955 重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される
1968 文化勲章を受章
1978 逝去(享年84歳)

現在の益子の注目の作家さん

小野正穂さん

岩下宗晶さん

素朴な風合い、益子焼の特徴

新福寺粘土など気泡を含む粗い土が多く取れ、割れやすい素材という条件の中で陶器作りが発達してきました。

そうした地質の関係で、砂気が多く、厚手でゴツゴツとした作品は素朴で独特な風合いを生み出しています。

一方で、鉄分を多く含み焼き上がりは黒くなりがちで、茶色の柿釉や糠白のような白釉で上化粧をすることが多く、それが益子焼の特徴へと定着していったと言われています。

益子焼の特徴① – 土

益子の土の特徴は砂っぽく、荒っぽいその素朴さと言われています。

そして、その土の魅力を引き出すのは登り窯です。薪で燃やした柔らかい火で、数日間かけて焼き上げます。鉄分の多い土に釉薬がしみ込み、薪の灰が表情を与えます。

必ずしも扱いやすいわけではない、粗い土を益子の陶芸家が創意工夫を凝らして作り上げています。

技術と粗い土の生み出す、独特の風合いが益子焼の魅力と言えるでしょう。

益子焼の特徴② – 釉薬

柿釉と呼ばれる釉薬は益子焼の伝統的な特徴の一つです。柿の色のような茶褐色のうつわは、さきほど説明した土の素朴な風合いと相まって、温もりと風情のある雰囲気の作品を生み出します。

釉薬の原料となるのは山にある岩で、粉末状にしたものを水で溶かして釉薬として仕上げます。

柿釉は、かける量や、焼く温度で仕上がりが変わります。陶芸家の皆さんが納得のいく色を出すために、試行錯誤を繰り返し、変化をコントロールする技術と経験を身につけると言われています。

柿釉は、民藝運動の中心として益子を一大産地に知名度をあげた濱田庄司によって生み出されたと言われています。濱田庄司は柿釉に他の材料を加えることでた多彩な色を生み出していったと言われています。

この温かみのある柿釉が出す茶褐色が、益子の一つの特徴として有名になっていきました。

 

益子焼の特徴③ – 流掛

釉薬がうつわの上に、さっと線を描くような形で色がついています。これは、ひしゃくを使って釉薬をしたたらせて、うつわに「流し掛け」て模様を作る技術です。

濱田庄司の作品の一つの象徴である流し掛けですが、18世紀のイギリスの器であるスリップウェアからヒントを得たと言われています。

技法的には非常にシンプルな手法ですが、線に迷いやよどみがないところが魅力だと言われています。

その瞬間にしか描けない、シンプルである一方で非常に躍動感のあるこの模様はなんど見ても新しい発見がある力強さと奥深さを表現する手法として、濱田庄司からはじまり益子の陶芸家たちに愛されてきました。

 

来るもの拒まずなオープンな気風のある益子

益子美術館

益子の陶器市も、全国から多くの陶芸家が集まってテントで出店をしています。焼物の種類も益子焼に限らず、南は沖縄のやちむんから北海道まで参加しています。

昔から、「来るもの拒まず」なオープンな気風があり、国内外からいろいろな作風を持った陶芸家が集まって、作陶に勤しんでいます。

そのオープンな気風が新しい民藝という文化を受け入れ、そして新たな形に昇華させていったのかもしれません。

益子焼が関東を代表する陶芸の地になってきたのも、こういった気風が影響しているのでしょう。

最後に

江戸時代から始まり、民藝運動の中心として発展をしてきた益子の焼き物文化。陶器市を見てもわかるように、その町に漂うオープンな雰囲気が、次々に新しい風を取り入れ、いつ行っても新しい発見がある、焼き物の都です。

今後もどんな文化やトレンドを発信してくれるのか注目したいですね。

 

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